お知らせ
第6回いつも20歳年上の人をモデルにして、長寿の人生を生きる
日野原重明さん(聖路加国際病院理事長)は今年98歳、臨床にあたりながら執筆に講演にと意気軒高の毎日を過ごしています。その著書には、心に置きたいことが数多く書かれていて、私たちの人生の《道しるべ》になります。
その中の一つに、「いつも20歳年上の人をモデルにして生きる」というメッセージがあります。「電車の中でも街角でもいいから、自分のだいたい20歳先と思われる人を探して吟味する」ということです。(『人生百年私の工夫』幻冬舎)
実は、日野原さんの歩んだ人生が、まさにこの言葉のようであったのです。つまり、新米の医師であった30代のはじめ、日野原さんは病院の図書館で『ウィリアム・オスラー卿の生涯』という伝記を読んで、深い感銘を受けました。
なぜなら、オスラー博士が「医者としていちばんだいじなことは、いついかなるときでも心を平静に保ことだ」と若い医学生に説いていて、「医者」として患者や病気に対するとき、その根幹に置かなければならないだいじなことを教えられたからです。
そのとき博士は亡くなっていて、すでに26年が経っていました。しかし、この伝記を介しての博士との出会いは新鮮で、どのような医者を目指したらいいか、悩むことの多かった若い日野原さんにとって、オスラー博士がそのモデルとして選ばれることになったのです。
それからの日野原さんの生き方は徹底しています。博士の書いた著書はもちろんすべてを読みましたし、博士が読んだにちがいない本まで読破して、その本に何が書かれていて、それを読んだ博士はどのようなことを考えてどのように行動することになったか。一つひとつを自分の生き方に重ね合わせるようにして生きていきました。
本に書かれていない博士のことも知りたい。そう思ってアメリカまで出向き、直弟子に話を聞くことまでしました。すると、たとえば博士は老人や子どもをことのほか大切にして、歳を取った後も、子どもとかくれんぼをしたりしてよく遊んでいたということを聞かされました。
著作のどこにも書かれていないそういう事実に接すると、日野原さんの心は躍りました。前掲書には、《子どもがこころをひらいて接する大人》について、次のように述べています。
「子どもと友だちになれるというのは、これは人間として最高のことです。なぜなら、犬が本能的に「犬好き」と「犬嫌い」の人間を見分け、「犬嫌い」にはけっして寄っていかないのと同じように、子どももまた本能的に、子どもを愛する大人を見抜くからです。だから、子どもに好かれる老人は最高なのです。」
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20歳年上の人、それは高校生や大学生にとっては「30代後半から40代にかけての人」になります。その年くらいの人で、「自分もそうなりたい」と思う生き方をしている人を見つけ、見つけたならば、その人に近づこうと心に決めて人生を送っていくのです。
20年後にその人のようになっているためには、いま何をなすべきか、どのような生活態度でいなければならないか。モデルとする人が決まったならば、あとは実践するだけです。
30歳になったら、そのときは50歳くらいの人、40歳になったならば60歳くらいの人というように、いつも自分の20歳先を歩んでいる「ある人」を心に置いて人生を歩みつづけます。そうすると不思議なことですが、あなたの20歳くらい年下の人が、あなたをモデルにして人生を歩もうと志すようになるのです。世の中のおもしろさというのは、このようにして人びとの人生が、時代を超えてつながっていくところにあると言えるでしょう。
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私は日野原さんのように、「長寿を全うできたらいいな」と思います。そう思うのですが、長生きすると、どのような幸せが待っているのでしょうか。世の中が見まちがうかのように便利になって、新しい文明の恩恵に浴することができる。そういう幸せが味わえるということでしょうか。
日野原さんの『十歳のきみへ』(冨山房インターナショナル)を読みますと、「長寿であること」のありがたさは、けっして「だんだんゆたかになって、便利になっていく時代を味わうこと」ではないようです。
科学技術の進歩によってもたらされる、そういう類いの幸せではありません。そうではなくて、「あのときのあれは失敗だったなあ」と思うことをもう一度やり直して、「人生のあちこちにできたやぶれめをつくろって強くしたり、あるいは新しいことに次々にチャレンジして、わたしの人生にさらにみがきをかける時間をたっぷりもらえた」こと。それが「長寿を生きること」の《かけがえのない幸せ》だというのです。
自らの人生をふりかえって若い人たちに伝える、日野原さんの次の言葉に私も耳を傾けたいと思います。
「自分にとってありがたくない、消してしまいたいとばかり思っていた体験が、じつは自分を成長させてくれる、とても大切な体験のひとつだとわかるときがきます。だから、どんな体験も、その人にとってひとつもむだではないということですね。」