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第14回立ち読みにまつわる最も美しい話

ひとりの本の好きな貧しい少年が、いつも仕事の行き帰りに書店の前で立ち止まり、ショーウィンドーを眺めていた。そこには一冊の本が、巻頭の扉をみせて飾られてあった。読みたくてもその子には本を買うお金がなかった。ある日、ショーウィンドーをのぞくと、本のページが一枚めくられてあり、少年はその開かれたページを読んだ。翌日もまた、ページが一枚だけめくられてあり、少年はつづきを読み進んだ。そんなふうにして毎日めくられてゆく本を、少年は何か月もかかってすっかり読み終えることができた。―――
鶴ケ谷真一さんは、このように「立ち読みにまつわる最も美しい話」を紹介する(『月光に書を読む』・平凡社)
この少年は後に歴史に名を残す人物になるのだが、それが誰だったのか、ここ数年思い出せずにいる。そのように鶴ケ谷さんはエッセイをつづける。本好きな少年の「募る思い」にさりげなくこたえた、19世紀のヨーロッパの或る本屋の話である。 
少年の心をとらえ、「巻頭の扉」をショーウィンドー越しにながめさせることになった本は、何という書名の本であったのだろう。書店のあるこの通りは行き交う人が多かったにちがいない。書店のドアを開けて、別の「その本」を立ち読みすることはできたであろう。しかし、書店に足を踏み入れることすら躊躇しなければならないほど、少年の身なりは貧しかったのだろうか。
何日も何日も立ち止まってその本に眺め入る少年の姿は、やがて店主の目に止まった。お客には店頭に並ぶ本をたくさん買ってほしい。しかし、本を読みたくてしかたのない様子がありありと伝わってくる少年がいれば、ページをめくってその思いを満たしてあげる。それも「本屋の務め」と考えたのだろう。

池澤夏樹さんが編集する『本は、これから』(岩波新書)を読んだ。同書では37名の執筆者が、電子書籍の流通し始めた当今の情勢をふまえて、「本のこれから」について語っている。そのなかに、生まれて間もない幼少のころの読書体験にふれた松岡正剛さんの次の一文がある。
―――おそらくぼくの読書は母の膝の上で絵本を見ているところから始まっているのだろうが、それは母の手の動きごとのものだった。その絵本には母の手が付録についていたようなものだったのだ。少したって石井桃子の『ノンちゃん雲に乗る』やロフティングの『ドリトル先生』シリーズを読んだときは、漢字のかたわらにいっぱいくっついていたルビが母の手の代わりになっていた。
私の最初の読書体験も、きっと「母の膝の上」でであっただろう。そのとき、絵本にはたしかに《母の手》が「付録」としてついていて、その「付録」があるおかげで本と親しむことができた。
「付録」というのは、ふつうは本体に添えられた「おまけ」のようなことがらを言う。しかし、ここで松岡さんが用いる「付録」は違う。「ちょっとしたことがら」にはちがいないのだが、それは本体である「幼子の読書」に欠くことのできないきわめて重要な添えもののことである。
そのように考えるならば、幼子のそのときの読書には《母の手》のほかに、いくつもの「付録」がついていた。それは例えば「母の膝のぬくもり」であったし、自分ひとりのために耳元で語る「母の朗読」であった。幼いころこれらの「付録」のなかで本を読んだ私の映像を思い出そうとしても、それはできない。しかし、わが子に絵本等を読み聞かせる身になってからのことであれば、その光景をくっきりと思い浮かべることができる。
幼子は少し大きくなると平仮名や片仮名を覚え、《母の手》を借りる必要がなくなる。一人で本が読めるようになるのだが、ときどき見慣れない漢字にぶつかってとまどってしまう(それは大人になってからも変わりはない)。そのようなとき、漢字のかたわらに「ルビ」がついていて《母の手》の代わりを務めてくれる。

内田樹さんは「僕たちは全員が、例外なしに、『無償の読者』としてその読書歴を開始します」と述べる(『街場のメディア論』光文社新書)。
つまり、生まれてはじめて読んだ本が「自分でお金を出して買った本だ」という人は、この世に一人も存在しない。たとえば家の書棚にある本、図書館に並ぶ本、友だちに借りた本、病院の待合室にある本などをぱらぱらめくるところから、誰もが「自分の読書遍歴」を開始する。そして、長い「無償の読書遍歴」の果てに、ついに「自分でお金を出して本を買う」という心ときめく瞬間に出会う。その本はそっと自分の本棚に置かれる。
ふりかえってみれば、身銭を切って本を買い求めるようになるまで、私は数えきれないほどの「無償の読書経験」を積み重ねてきた。その機会を与えてくれた方々にどれほど感謝してもしきれない。
しかし、私には一つの心残りがある。それは、はじめて自分の小遣いで買い求め、勉強机のブックエンドにそっと置いたにちがいない本の書名を思い出せないことである。そのとき「心ときめく瞬間」を味わって、何度となく手にして表紙や背表紙をながめて過ごしたにちがいないのだが、そのときの記憶を失くしていることが悔やまれる。 
鶴ケ谷さんの紹介する貧しい少年は、「読みたくてならない本」を店主のさりげない計らいで読み終えることができた。「ショーウィンドー越しの読書」がつづく石畳の街路であった。