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第19回村岡花子と赤毛のアン、そして茂木健一郎
NHKの朝の連続ドラマ「花子とアン」を楽しみに見ている。『赤毛のアン』の翻訳者村岡花子さんのドラマ(脚本中園ミホ・原案村岡恵理)である。
安東はな(山田望叶→吉高由里子)は、山梨県の山村の貧しい小作農家に生まれた。行商から半年ぶりに帰って来た父が、「とっておきの土産買ってきたぞ」と袋から出したのは『親ゆびひめ』の絵本であった。「食うもんがよかった」と兄と妹はがっかりしたが、〈はな〉は「絵本だ。ほんものの本じゃ。おら初めて本にさわった。夢みていじゃ」とはしゃいだ。子守りや水汲みなどで1日を過ごし、1年生になっても学校へは1日も行かずにいた〈はな〉にとって、本は高嶺の花であったのだ。
ある日、母は茶飲み話で、父と初めて会ったときのことを話していた。ブドウ畑でたまたま出遭った父に、鎌倉で海水浴している人たちのことなどを聞いていた。「こんな話はたいくつだよな」と言われたが、「どこにも行ったことのねえおらには、初めて聞く話ばかりじゃ。おらあ、海なんて見たことねえから、今のような話をきかしてくれっちゃ」と母はつづきをせがんだ。
〈はな〉は言う。―――お母がお父を好きになったのは、おらが本を読んでるときの気持ちと同じじゃんけ。本を読むと、行ったことのねえ場所や見たことのねえ景色がどんどん頭に浮かんでくるだ。じっとしていられんほど、胸がドキドキして熱くなる。
父の取りはからいで東京のクリスチャン系の女学校に入学した〈はな〉は、英語の授業も受けることになった。校則違反で謹慎処分となり、布団にもぐりながら洋書を読んでいると、palpitationという言葉があって、どういう意味か分からなかった。
様子伺いに来た友に辞書を借りて探してみると、「ときめき」と書かれていた。「そうか、ときめきか」とつぶやき、でも90歳のおじいさんの話だから「動悸・息切れ」と訳したほうがいい。そう思っていると、「〈はな〉さんは、どういうときにときめくの?」と聞かれた。
「それは、こんなふうに辞書をひくときです。未知の言葉の意味が明らかになる時のわくわくした気持ちがたまりません」と答える〈はな〉であった。
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脳科学者の茂木健一郎さんは小学5年のとき、アインシュタインの伝記を読んで目が開かれ、将来は物理学者になろうと思っていた。ある日、読みたい本を探して図書館の本棚を眺めていると、『赤毛のアン』の背表紙が目に飛び込んできて、「僕のことを呼んでいる気」がして思わず手に取った。
それがきっかけで『アン』の世界にのめりこみ、中学生になると全シリーズ10作を読み終え、高校生のときにはそれらをすべて原書で読破した。勉強部屋にはプリンス・エドワード島(小説の舞台)の地図を貼ってそれを眺めて過ごし、大人になってからはその地を訪れた。
「もしこの本と出合っていなかったら、大げさでなく僕の人生は今とだいぶ違ったものになっていたと思うんだ」と茂木さんは述べる(『「赤毛のアン」が教えてくれた大切なこと』(PHP研究所)。
村岡さんは『赤毛のアン』(新潮文庫)の「あとがき」で、あるアメリカの有名人の語ったことを書き記す。―――いかめしい顔をして事務所へ出かけた父親が鞄の中へ忍ばせて持って行ったことも知らず、娘や息子たちは夢中になって『アン』を家じゅう探し回っているという事実がこの本のおもしろさを一番よく証明している。
いったい、なぜに『アン』に取りつかれることになるのだろうか。茂木さんによれば、そこには多感な思春期を生きる子どもの悩みや喜びや悲しみなどがいっぱい詰まっていて、繊細な女子の気持ちが肌で感じられるからである。
思春期というのは「脳が一番ぎこちなくなる時期」である。「ぎこちない」ということは「変わる力も大きい」ということにほかならず、頭脳は「今までにない状況に不安」を感じつつ、その「新しい状況をフル回転で学ぼう」と努める。うまくいかずに失敗することももちろんあるが、新しいことに挑戦して自らを成長させることができる。
そのようにぎこちない思春期を想像力の翼を大きくひろげて生きるアンが、世界各国の世代を超えた人たちの心をとらえて読み継がれているのだ。
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村岡花子さんのエッセイを読むと、ある古本屋の話が載っている(『生きるということ』あすなろ社・『腹心の友たちへ』河出書房新社所収)。
その古本屋は夜中の2時、3時になると、目が覚めてしまうことがあった。床を出て店に出ると、そこには永井荷風、芥川龍之介、菊池寛、幸田露伴などすでに故人となった作家の本が、ぎっしりと並んでいる。うす暗い闇にじっと座っていると、「ここは墓地なのだ」と思えて、「死人と共に暮らす、それが自分の仕事だ、この人たちの墓守りで生活しているんだ」と思えてくるというのだ。
買い取られて古本屋の書架に並び、新たな読み手に出逢うことを静かに待つ書物、もしそれが何巻かの函入りの全集であれば、たしかに墓標のように感じられるのもうなずける。夜中の古本屋には作者の魂がさまよっていて、古びた本たちがひそかに言葉を交わしている。そのやりとりが耳に届いきて、思わず目を覚ましたのかもしれない。
長女のみどりさんは、母の遺稿集『生きるということ』の「あとがき」に、次のように書いた(『腹心の友たちへ』河出書房新社所収)。
―――人の心を、一軒の家にたとえることができるとすれば、母は、ずいぶん、いろいろのへやを持っていたほうだと思います。仕事がら、その客間にはたくさんの人びとが出入りし、書斎には、手がけた書きものが、山積みされてありました。かなりにぎやかな家でしたが、その奥のほうには、落ち着いて、つつましやかな茶の間がありました。忙し過ぎて、ときにはす通りし、また席のあたたまるひまのないときもありましたが、母にとってちがった意味で重要で、母はそれをとてもたいせつにしていました。
村岡花子さんの心には、ほんとうに「いろいろのへや」があったのだろう。客間には、白蓮をはじめ佐佐木信綱、片山廣子、吉屋信子、林芙美子、石井桃子、市川房江、ヘレンケラー等などが訪れたし、書斎に並ぶ蔵書の半分は洋書であった。
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『赤毛のアン』の原作『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』が花子に手渡されたのは昭和14(1939)年、46歳のときである。太平洋戦争が激化して帰国せざるを得なくなったカナダ人宣教師に「あなたの手で日本の少女たちに紹介してください」と託されたのだ。
花子は灯火管制下にあっても黒い布をスタンドにかぶせて翻訳に努め、空襲警報が鳴り響くと、書きかけの原稿と原書をかかえ、娘みどりの手を引っぱって防空壕に飛び込んだ。原稿用紙700枚以上に訳し終えたのは戦争の終った20年、出版にこぎつけたのはその7年後、昭和27(1952)年であった。
74歳になって初めてアメリカに渡ることになった花子に、プリンス・エドワード島を加える旅程が娘から贈られた。とても楽しみにして旅をつづけてきた花子は、直前になって同島行きを取りやめた。
孫の恵理は「花子の脳裏にはモンゴメリの言葉から紡ぎ出された美しい自然の風景が鮮やかに描き出されていた。その想像の風景を花子は翻訳の筆に注ぎ込んだのだ」と述懐する(村岡恵理『アンのゆりかご』新潮文庫)。
そして、「プリンス・エドワード島を娘と訪ねるのは、まさしく夢のように素晴らしい企画ではあった。が、同時に、現実に目にすれば、心の中で慈しんでいた想像の世界が失われてしまう恐れ」を感じたのではないかと推察する。
アンの名づけた歓喜の白路、輝く湖水、恋人の小路、すみれの谷、樺の道などを心に描いて翻訳しつづけて生きてきた村岡花子さんである。