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第21回朝の光景でいちばん美しいのは、学校の制服を着た子どもが歩いている姿だ――幼いマララさんに父が語ったこと
この日(11月10日)の10時15分過ぎ、マララさんはバーミンガムの高校で化学の授業を受けていた。教室に入ってきた先生に「ノーベル平和賞おめでとう」と言われて驚いた。歴代最年少となる受賞の理由は、「子どもや若者への抑圧と闘い、すべての子どもの、教育を受ける権利のために奮闘したこと」である。
その後ふだんどおりに物理と英語の授業を受けたマララさんは、放課後になって記者会見に臨んだ。
―――この賞は「身に着けたり部屋に置いたりするだけのメダル」ではない。「受賞したことでおしまい」ではなくて「始まりに過ぎない」。なぜなら、「いまだに5700万人もの子どもたちが教育を受けられず、小学校にすら通えていない」からだ。
マララさんのスピーチは、しだいに熱気を帯びた。―――他人が行動するのを待っていてはいけない。子どもたちの声はずっと力強いのです。子どもは弱者かもしれない。でも、誰も何も言わない時に声を上げれば、みんなの耳に届くほど、大きく響かせることができるのです。
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マララさんは1997年、パキスタンのスワート渓谷に生まれた。『わたしはマララ』(学研パブリッシグ)を読むと、この17年、彼女は父母から受けてきた教えを滋養として、身のまわりに生起する現実と真摯に向き合っていた。
母は6歳になって学校に通い始めたのだが、女の子を学校に通わせようとする家は他になく、1年も経たないうちに登校をやめた。読書家の父は母のために詩を書いて贈ってくれるが、それを読むことができなくて、学校に通わなかったことを悔んだ。
「知識ほど貴重なものはない」と考える父は、「新しい時代の声を求めて」と呼びかけて小学校をつくった。初年度の入学生はたった3人であったが、マララさんが誕生するころには100人もが通う学校になっていた。彼女は3~4歳になると小学生のクラスに入れられ、“教室の空気”のなかで日々を送るようになった。
ある日、ネズミが走り回るゴミ山に、ジャガイモの皮とタマゴの殻を捨てに行かされた。そこには、髪をバサバサに伸ばした同い年くらいの女の子がいて、空き缶やビンのふたなどを拾い集めて袋に入れている。「お父さん、あの子たちをただで学校に通わせてあげてよ」とせがむ彼女であった。
過激派タリバンがスワートに入ってきたのは、10歳のとき(2007年)である。翌年末までに400もの学校が破壊され、「すべての女子校を閉鎖する。女子が学校へ行くことを禁止する」と声明が出された。
父は言い切る。―――教室が一つきりになっても、教師が一人、生徒が一人になっても、教育をやめない。学校に通って本を読んだり問題を解いたりしてきているが、それは「ただ時間を費やしているだけ」のことではなくて「未来を作っている」。このことに思い至った彼女は、タリバンには「ペンや教科書を奪うこと」ができても、「考える力を奪うこと」はできないと確信した。
イギリスのBBCに、タリバン支配下で暮らす人びとの実情を報告してほしいと打診された。命が狙われる身になることを覚悟のうえで、彼女はそれを引き受けた。
2012年10月9日は、母が数十年ぶりに教室で授業を受ける日であった。その日、マララさんは定期試験を終えて、3人の先生と20人の女子生徒とワンボックスカーで家路に向かった。カーは軍隊の検問所を過ぎてしばらく行くと急停車させられた。
若い男が乗り込んできて、「どの子がマララだ?」と問い詰めたが誰も答えない。しかし、一人だけ顔を隠さずにいる彼女のほうに目が向けられたとき、3発の銃弾が放たれた。左目脇に命中した1発は首を通って左肩あたりで止まり、彼女の意識はそのとき途絶えた。
「答えるチャンスは与えてもらえなかった。答えることができたとしたら、女の子が学校に行くのを認めるべきだ、あなたたちの娘や妹も学校に行かせるべきだ、と言ってやれたのに」と、彼女はそのときのことを悔やむ。
重体に陥った彼女は、医療装備の整った現地の病院で5時間にわたる手術を受けた。病態は安心できる状態ではなく、1週後にはイギリスの病院に搬送されて専門医の治療を受けることになった。襲撃事件とその後の彼女の容体についての報道は全世界に流され、病院には彼女の恢復を祈るカードが8000通、世界各地から届いていた。
宛先を見ると、そのほとんどが「バーミンガム病院のマララへ」「バービンガムにいる、あたまをうたれた女の子へ」と書かれている。彼女はこの宛先で「ちゃんと届いたのがすごい」と驚くとともに、「世界中のみんなが、わたしの命を救ってくれた」と胸を熱くした。
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2013年7月12日は16歳の誕生日である。この日、マララさんは国連に招かれてニューヨークの同本部で20分のスピーチを行った。
○テロリストたちは、わたしの目的を変えさせてやろう、目標をあきらめさせてやろう、と考えたのでしょう。でも、わたしのなかで変わったことなど、なにひとつありません。あるとすれば、ひとつだけ。弱さと恐怖と絶望が消え、強さと力と勇気が生まれたのです。
○過激派は、本とペンを恐れていました。そしていまも恐れています。教育の力が怖いのです。彼らはまた、女性を恐れています。女性の持つ力が怖いのです。
○世界の無学、貧困、テロに立ち向かいましょう。本とペンを持って闘いましょう。それこそが、私たちのもっとも強力な武器なのです。一人の子ども、一人の教師、一冊の本、そして一本のペンが、世界を変えるのです。教育こそ、唯一の解決策です。まず、教育を。
無学と貧困とテロに立ち向かう後ろ盾となるのは教育であって、なんびとも教育を受ける機会を奪ってはならない。道理にかなったスピーチが終わると、会場にはスタンディグ・オベーションが起こった。母は横で泣いていて、父は「マララが、世界じゅうの人たちの娘になった」と喜んでいた。
2014年12月10日、ノーベル平和賞の授与式がオスロで挙行された。その式典にマララさんはパキスタン・ナイジェリア・シリアから5名の少女を招待した。教育の機会を奪われて辛酸をなめている少女たちである。
○「強国」と呼ばれる国は、戦争を生み出すことには力を入れるのに、平和をもたらすことにはどうして力が入らないのでしょうか。銃を与えることはいとも簡単に行うのに、子どもたちに本を与えることはどうして難しいのでしょうか。戦車をつくることはいとも簡単に行うのに、学校を建てることはどうして難しいのでしょうか。
○男の子や女の子が子ども時代を工場で過ごすことも、女の子が幼いうちに結婚させられることも、戦争で子どもの命が失われることも、子どもが学校に通えないことも、女の子が教育を受けることは権利ではなくて犯罪だと言われることも、もうこれで終わりにしましょう。この「終わり」を一緒に始めましょう。
ノーベル平和賞はこれまで、マーチン・ルーサー・キング、ネルソン・マンデラ、マザー・テレサ、アウン・スー・サーチンに授与されている。カイラシュ・サティアルティさんと共に同賞を受賞したマララ・ユスフザイさんのスピーチは、私たちを覚醒させる堂々としたものであった。
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『わたしはマララ』のなかに、「そうだよな」と心が温かくなる言葉があった。マララさんが幼いころに父に聞かされた言葉、「朝の光景でいちばん美しいのは、学校の制服を着た子どもが歩いている姿だ」である。
子どもたちが心はずませて学校に向かう風景をながめて、「美しい光景だ」と見とれてしまう。父が学校づくりに奔走する根っこには、このみずみずしい感性があった。そして、その感性はいつとはなしに母に、またマララさんにも宿っていった。
母が学校に通い始めようと一念発起したのも、マララさんが「すべての子どもたちに教育を」と命を懸けての訴えをやめないのも、明け方のすがすがしい登校風景に“未来を切りひらく力”を感じ取って生まれている。私はそのように思う。
マララさんの受賞スピーチには、次のようなくだりがある。
―――私たちは教育を渇望していました。なぜならば、私たちの未来はまさに教室のなかにあったのですから。共に席に着き、本を読み、学びました。きちんとした制服に身を包むのが大好きで、大きな夢をいだきながら着席したものでした。
颯爽と学校に向かう子どもたちの姿を目にすると、からだがあたたまってくる。それは世界のどの地域でも変わりない。高村光太郎はその火照りを「冬の子供」に詠った。
冬の子供
高村光太郎まっかな頬ぺたと、
まっかな耳と、
まっかな唇と、
まっかなまるい小さい手と。
みんなまるまる着物をきて、
まっしろな霜の朝、
かたいガラス張の空気を割るやうに、
飛んで来る五六人の子供。
小さな蒸気汽罐のやうに、
みんなほつほと白い煙をはきながら、
あとからも、あとからも、
魔術のやうに、地面から湧いて、
横にさす朝日の中を
飛んで来る幾百人の子供。
男の子も、女の子も、
なにか珍しい国語で
不思議なことでも叫んでゐるやう。
見てゐるとひとりでにほほゑまれ、
世の中が大きくなり、
しまひにあははと笑ってしまふ。
ほら、
学校の鐘が鳴る。
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『高村光太郎全詩集』(新潮社)によれば、「冬の子供」は1922(大正11)年12月8日に作られ、雑誌『ローマ字』(大正12年1月号)にローマ字書きで発表された。この詩は1945(昭和20)年1月出版の『道程』再訂版に、国字に改めて収録された。なお、8行目の「五六人」は「ごじゅうろくにん」ではなく、「ごろくにん」と読む。