お知らせ
第22回ぶつかることを糧にして上手に生きる(卒業式式辞)
本日、春の訪れを感じるこの佳き日に、多数の来賓、保護者のご臨席のもと、卒業証書並びに学位記授与式を挙行出来ますことは、このうえもない喜びです。
313名の卒業生の皆さん、おめでとうございます。皆さんの輝かしい未来が限りなく開かれていくことを心から期待しています。また、保護者の方々には、これまでのご家庭での養育に深く敬意を表します。
さて、今日はビジネスライフ学科、こども学科を卒業して、社会に第1歩を踏み出す門出の日です。夢が叶って4月が待ち遠しい。そういう思いとともに、「自分に務まるだろうか」という不安な気持ちも、どこかにあるのではないでしょうか。
一人ひとりの旅路が心躍るものとなることを祈って、今日は「ぶつかることを糧にして、上手に生きる」という生き方に目を向けたいと思います。
私はこのところ、吉野弘さんの詩に共感を覚えて読むことが多くなっています。吉野さんは日々の生活の中で目にしたり、耳にしたりしたことをすくい上げ、私たちが「大切にしたいこと」を詩に託して届けてくれています。数多くの吉野さんの詩のなかに、「動詞『ぶつかる』」という変わった題名の詩があります。まず、この詩を紹介します。
50年以上前のことです。テレビを見ていると、「日本で最初の盲人の電話交換手」となった女性のインタビュー番組があって、吉野さんの目に留まりました。
こう言っても、ケイタイやスマホなどで一瞬に相手と繋がる時代に生きる皆さんには、何のことか話が見えないと思います。実は50年以上前、私が子どものころは、黒色の電話機で1・0・0とダイヤルを回すと電話局に繋がって、交換手が出てきて、通話したい相手の電話番号を伝えると、交換手がその番号に配線をつなぐことで、通話ができたのです。
ですから、電話局の交換手の仕事は間違いなく「配線を繋ぐ」ことで、その交換手に盲人として初めて就いた20代の女性に、スポットが当てられたのです。
番組では彼女の通勤について伝えられました。出勤第1日目は母親が付き添いましたが、次の日からは毎日一人で、満員電車に乗って1時間あまりの道のりを通勤しているというのです。
アナウンサーが「朝夕の通勤は大変でしょう?」と聞きますと、「ええ、大変は大変ですけれど、あっちこっちにぶつかりながら歩きますから、なんとか……」と彼女は話し始めました。「ぶつかりながら……ですか?」と同情して問い返すと、彼女はほほえんで「ぶつかるものがあると、かえって安心なんです」と答えたのです。
吉野さんはハッとして、このことからひろがった思いを「動詞『ぶつかる』」という詩に詠ったのです。
私ばかりでなく、ここに居る皆さんは目が見えますから、何かによほど気が奪われていないかぎり、物や人にぶつかることはありません。階段を踏み外すこともありません。目の不自由な人の歩く様子を見かけると、ぶつかりはしないかと恐る恐る歩いているように見えます。
なにしろ、道端には電柱がはみ出していたり、通りすがりの人がバッグで身をこするようにすり抜けていったりして、たくさんの障害があちこちにあるからです。
しかし、彼女は「ぶつかるものがあると、かえって安心なんです」と笑みを浮かべて言いました。身を細めてこわごわと歩くのではなくて、「ここに、こんなものがあるんだ」と、「ぶつかること」を、目の見えない自分に差し伸べられている「ありがたい道しるべ」と受けとめて、歩いているのです。
吉野さんは書きます。「人と物の間を、しめったマッチ棒みたいに一度も発火せず、ただ通り抜けてきた私。世界を避けることしか知らなかった私の鼻先に、不意にあらわれて、したたかにぶつかってきた彼女。動詞「ぶつかる」がそこにいた。娘さんの姿をしてほほえんで」
詩人というのは、現実をこのように感覚的にバサッと捉える感性をもっています。盲人のこの彼女は『動詞「ぶつかる」』で、動詞「ぶつかる」が盲人電話交換手の娘の姿をまとって、ほほえみを浮かべながら、テレビ画面からドスンと自分にぶつかってきた。――吉野さんは、このときの衝撃をこのように表現するのです。
この詩は路上で「ぶつかる」ことを語っていきますが、吉野さんは毎日の生活の中で生じる様ざまな「ぶつかる」に、私たちの目を向けさせていきます。
盲目の彼女が日々ぶつかっているのは、道端に置かれている物や通りがかりの人だけではない。仕事をしている節々で、目の見える人と比べられて、「きつい言葉」をぶつけられているにちがいありません。過剰な同情を寄せられることもあるでしょうが、そういう度の過ぎた同情も「ぶつかる」の変形です。
そういう様ざまな「ぶつかる」を何とも思わずに受け止めて、人生とはそういうものだと悟るかのように生きる、日本で最初の盲人の電話交換手であったのです。
さて、卒業生の皆さん、4月からは社会人となって、それぞれの職場で仕事を始めていきます。最初は勝手が分からなくて、とまどうことが多いに違いありません。「何でこういうことも分からないのだ」と叱責されたり、呆れかえられたりすることがあると思います。
そういうときは、ふてくされたりムカついたりしないで、上司や同僚がぶつかってくれるのは有り難いと受けとめる。「何かにぶつかった」ということは、「別の対象と出会った」ということです。そういう対象と出会って痛い思いを重ねていって、自分を成長させていく。それが実社会です。
そして、ここで何よりも肝心なことがあります。それは自分の中にもう1人の自分を生きさせて、2人をぶつからせる時間をもつということです。
近年、せっかく就職したのに、早々と辞めていく若者が多い。辛抱することができない若者が多くなったと言われます。しかし、見方を変えるならば、上手に人とぶつかることができなくて、早々と退職していっているのです。
他人はもとより、自分とも上手にぶつかることができずに、身を引いてしまう芯の細い若者が多いということです。この世の中、思い通りにいくことは多くはありません。辛抱するときはじっと辛抱する。波が荒いときは静まるまで静かに待つ。
若い皆さんの周りには、惜しみなく応援してくれる人が必ずいます。ぶつかるということも、応援する一つのかたちなのです。
「あっちこっちにぶつかることは大変ですが、仕事の仕方がだんだん分かってくるので、かえってありがたいです」と、ほほえみを浮かべて話す。日本で最初の盲人の電話交換手がそうであったように、そのようにさわやかに、いろいろなものを吸収しつづけて、社会の大海原へと船出していってください。
以上、前途洋々たる皆さんの門出を祝福して式辞とします。卒業おめでとう。